昨年夏からリビングにあるエアコンが午後の暑い時間帯に23℃に下げても、出てくる風は出力最大の風ばかりとなった。なんとやり過ごしたものの最近、ようやく某メーカーの15畳のエアコンに変えた。このエアコンには「快適自動」というモードがあり、センサーで外気温と室温の差を+-5℃に自動的に抑えてくれるという。夏の暑さで一番体に堪えるのは寒暖差。自分で外気温との差を考えなくても自動的に快適にしてくれるモードを使い始めてから外に出ても中にいても暑すぎるとか寒すぎるという感覚が少なくなった。テクノロジーの賜物である。


この「快適自動モード」に気が付いたのはエアコンを新調してから2か月も経ってだ。取説を斜め読み程度だったのでこの快適なボタンを最大限活用できていなかった。この状況は他に置き換えてみるとAIと人間の関係にそのまま当てはまる。つまりAIはデーター処理や「自動」が得意分野だが、そのデーターを提供したり、そもそもAIを動かすプログラミングをするのは人間であるということ。我が家の冷房が2か月ほど宝の持ち腐れになっていたのも、人間である私たち家族が最適な方法で動かしていなかったからだ。「AIが職を奪う」とか「新しい職業が創造される」と言われて久しいが人間でしかできないことを考えてみたい。それが子育ての指針の一つとなりうるからだ。

その一つが「自分で考えて行動する力を持つこと」。冷房を例にとると、寒すぎたり暑すぎたりするのは困るから、「どうにか冷房の機能を見極めて使いこなそう」というように自力解決できるかどうかだ。自分で考えて行動できるように、、と我が家の子育ての大原則は「自己責任」を柱にしている。宿題を終えたのかとか勉強をしなさいとか基本的には言わない。それは周りから見ると「放任」にも見えることもあるだろう。宿題を忘れて嫌な想いをしたり成績が思うようにつかないのは、親が声掛けを忘れたからではなくて、あくまでも当事者である本人が取り掛からなかったから。つまり自分で気が付いて行動できるようにやり方や道しるべの複数の選択肢は示すものの親はその後じっと見守るのだ。放任と違うところは「限界設定」があること。門限、食事、睡眠、お小遣いの使い方、など最低限のルールは教えて守らせる。それ以外は自己責任、というスタンスである。

ところが最近この「自己責任」を子どもが取り違えて行動する場面があり、久しぶりに夜中過ぎに子どもを正座させて叱る事態となった。夏休みなのでお友達と千葉にある夢の国のテーマパークに遊びに行った子ども。門限は10時だがその日に限って10時を過ぎても何も連絡がなく、携帯電話も通じなかった。10時半、11時、11時半、、と時間が経つごとに心配になった。「何かあったのではないか」と、深夜近くにもかかわらずお友達のお母さんにご協力をお願いしたり、深夜を回ったら警察に連絡をしようとまで考えていた。そこに子どもがひょっこりお友達の電話を借りて連絡をよこした。12時前に「地元の駅についたから今から帰ります」と。帰宅後、即正座をさせられたのは言うまでもない。

ここでお伝えしたいのは、自己責任とはいえ周りに迷惑のかかることは絶対にしてはいけない、ということを念を押して伝えたことだ。親は信じているから口うるさく言わない、ということを再度伝えた。管理をしているほうが親は楽なのだが親が子の管理を続けていると子どもは永遠に口を開けて餌をもらう雛のように生きていくことになる。親は子よりも先に人生を終える。親の代わりに餌を子どもに挙げてくれる人を探すより、その子が自分で生きる力を身に着けるほうが本人も幸せだろう。AIに職を奪われるとか奪われない人材以前に、自分で考えて、何が問題で、その問題を解決しようとする力、できないときは素直に助けを求める力があれば何とか生きていけるものだ。暑かったら涼しくする、その最適な方法は、、、、エアコンのボタン一つの選択でも子育て人育ては始まっているのだ。